|
中津川から見る恵那山は、前山(まえやま)の鎧をまとって気高く聳えている。 子供の頃中津川に住んでいた私にとって心の山、恵那山に登るのは、1967年7月に黒井沢ルートから登って以来40年ぶりである。 今回登る前宮ルートは1967年当時は廃れていたが2001年に復活を遂げた表参道で、W.ウェストンも登ったという由緒あるロングルートである。中津川上流にあって文楽で知られる川上(かおれ)部落から恵那神社を経由して、尾根伝いに山頂を目指す。 ルートの詳細については、気合のこもったサイト、足立さんの「@恵那山」を見 て頂くとして(手抜き!)、 今回は印象を手抜きついでに箇条書きで纏めさせてもらいます。 |
|
バイカオーレン(梅花黄蓮)は、最盛期。 |
物見の松のあたりから。笹と枯れ木が恵那山の代表的イメージ。 |
|
|
||
行者越えに佇む「役小角(役の行者)」 高下駄だ。 |
登山道。ってどこが?(左手の木に赤テープ) |
|
0)4/30深夜 名神の多賀SAでガソリンを131円で給油 5/1朝、恵那峡SAではいきなり163円に! 暫定税率1ヶ月で復活、何だかなあ。それにしても皆値段が高い安いしか考えないが、(ワタシもです。) 税金を払う義務という意識はなさそうだ。税金の使い道が悪いからだろう。 1)登山口からウンザリする植林の登り700mH 2)バイカオーレンとアカヤシオが最盛期。 3)でも枯れ大檜のそばにあるアカヤシオは二輪しか咲いておらず。蕾も少ない? 4)物見の松から前山と剣先が見えた。前山の裏側を見たのは初めてだ。根の上高原の池も見える。 |
||
5)今日は高曇りであまり日差しが強くない。霞んで遠望は利かず、御岳も見えなかった。 6)十六合目の少し手前から雪が現れ、スパッツ着用。雪は固くなっているが、何回も踏み抜いた。体力消耗〜。 7)十六合目から分岐(前宮ルートと神坂峠ルートとの分岐点)までは、尾根と思えない地形で残雪期には迷いやすい。 (特に下山時)雪で赤テープが隠れている場合は、困難と思われる。 |
||
一ノ宮の祠は雪の中から現れて来た。 |
冬 には埋まる分岐標識(前宮ルートと神坂峠ルートとの分岐点) | |
稜線に出て振り返る。良く晴れて来た。左奥の尾根が前宮ルート。 |
山頂避難小屋前の広場。(積雪は50cmくらい?) |
|
8)分岐を過ぎると良く晴れ渡って来て、稜線から頂上小屋までは、雪が眩しかった。 9)小屋で昼食を食べていたら、今度は突然曇って来て下りはガス。 10)登りは正ヶ根谷の登山口から休憩を含んで5時間35分。「自他とも認める一般的な中高年の」A標準記録登り6〜7時間をクリアできたことにいたく満足した。でも下りは息も絶え絶え、4時間30分。標高差は1440m。 11)今回は体力温存のため、装備を軽量化。そのためビールは封印。でも暑そうだったので水は多めに。 それにしてもピッケルは無用の長物だった。 12)登山後は、中津川の定番お菓子の「すや」へ。そのあと銘酒「恵那山」のはざま酒造さんへ行って純米吟醸酒を買う。 ポイントカードはお持ちですか?と聞かれたが、滅多に来ないし。でももらっておけば良かったかも。 |
||
アカヤシオ(正ヶ根沢の林道が見える。) |
はざま酒造さんの「恵那山」吟醸純米 |
|
|
番外編 私が住んでいた頃の中津川(1965年7月〜1970年3月) ・ 中央高速道路は当然無く、国道19号線のバイパスも無く、国鉄中央西線は非電化、単線で蒸気機関車D51の引く普通列車は、名古屋からの80kmを2時間30分かけて走っていた。(今は快速で1時間15分)その他にディーゼル急行「ちくま」と新潟行きの「赤倉」があった。 中央線はトンネルだらけの路線で落合川を出た下り列車には、窓を閉めていても車内が曇るほど煙が充満し、漸く下り坂になると「窓を開けて緑の風を入れましょう!」なる車内放送がかかるほどだった。 ・ ついでに鉄道では、中津川駅から少し外れたところ(中津町)から北恵那鉄道が下付知を結んでいた。苗木に着く手前の木曽川に架かる鉄橋を2両編成の電車が 走る様は絵になる風景だった。付知川にはよく泳ぎに行ったが、一度6月に行った時には川の水が冷たく(今考えると雪解け水だ。)唇を紫にしながら泳いでい た。先生にその話をするとこんな時期に泳ぐヤツがいるかと叱られた。木曽川本流は流れが早く遊泳禁止。 また苗木は特殊な岩石(ペグマタイト、トパーズ、水晶など)が採れるところでそれを探しに行ったこともある。 ・そのほかに場所は正確に覚えていないが中津川駅付近から本州製紙(今の王子特殊製紙)ヘ行く線路もあった。そして本州製紙の上流には場所が分からないが 中津川本流に3mくらいの堰堤があり、その下流でも泳いでいた。恵那山や前山は主として花崗岩の山で、大雨の時には崩れて洪水を引き起こす。このため中津 川や四ツ目川には花崗岩の岩がごろごろしている。(今も) ・中津川駅前から南へ今は広い道があるが、当時この道は細く現在のアピタの場所には、近江絹糸の紡績工場とグランドがあった。私の父はここへ転勤して来たのである。 ・中津川は山国なので当時海の魚は少なく、肉はなぜか鶏がメインだった。また霞み網で捕る野鳥もあった。(ジビエだ。)また中津川の五平餅はお団子のように串刺しのタイプで、桃山公園のそばにあった店(名前は忘れました。)でよく食べた。 ・父の遊びは麻雀で家でもやっていたが、一番高級な雀荘?が今もあるが夜烏高原の料亭旅館「長多喜」だ。また駅前の「勝宗旅館」もよく使っていたようだ。そのころはカラオケなんてものは無く、映画館も記憶にない。 ・中津川は雪はあまり降らないが、当時冬の朝には-15℃くらいになることがあり、標高300mくらいの土地にしては随分寒かった。田んぼに張った水が 凍ってスケートが出来た。その代わり夏の夜はとても涼しい。桜の咲く時期には四ツ目川の堤が桜に包まれた。また少し遠いが落合ダムの桜も美しい。秋には前 山(まえやま)が全山夕日を受けて赤く染まる。 |